士山撮影の醍醐味のひとつにバルブ(夜間)撮影がある。満月の光量は太陽の四十六万五千分の一である。一見四十六万五千分の一と聞くと少ないように感じるが、一億五千万km離れて地球上の全ての生物を温め続けるその熱量は底はかとないものであり、その見地に立って推察しても満月の光量の豊かさが測り知れる。夜間撮影はその月の力を借りて日常では見ることの出来ない未知の光景を映し出すものであり、真さにカメラ特有の映像世界である。
 
月の動きの特徴は、太陽と異なり変則的に変化することである。ひとつはその軌道が楕円であること、二番目には地球との距離が近い為である。太陽は一億五千万kmも離れている為、我々には毎年同じ動きのように見える。例えば元旦の日の出の位置は毎年変わらない場所から出る。しかし月は最接近地点で約35万km、最も離れた遠地点で約40万kmと近く、楕円軌道が故に4年に一度ほぼ同じ動きをし、24年に一度まるで同じ動きをする。今日見た月は24年後でなければ見ることが出来ないのである。
 
夜間撮影の場合、月は一種の照明機器の代わりをする。月は太陽と同じように東から出て西に沈む。撮影対象となる富士山に対し、最良の照射位置に月が来た時が撮影チャンスとなる。月の出は毎日約50分変化する。例えば今日19:00に出た月は、明日19:50頃に月の出となる。また、一時間に15度進み(移動し)24時間で360度動く。立つ位置の正面に富士山がある場合、自分の立っている位置が東西南北どの方向を向いているかによって月は左右前後に移動し、最良のシャッターチャンスも変化することになる。
 
例えば私の住む静岡県東部や伊豆半島は、富士山を正面に見た場合、月は右手山側より昇り左手海側に沈む。この場合最もライティングの良い月の位置は、自分の頭上(天の子午線)に至るまでの約2時間となる。月光が天の子午線を越えて西(海側)に傾き始めた位置になると、富士山の稜線や雪の起伏が平坦になり写真としての魅力を損なう。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

また、月は古来より多くの和歌に詠まれてきた。「花の西行、月の明恵」と言われるように、大和魂を表現する重要な題材のひとつであり、多くの文人墨客が愛し愛した日本文化の象徴的存在である。
 
「月影のいたらぬ里はなけれども ながむる人の心にぞすむ」  (作:法然上人)

(解釈:月の光はこの世をあまねく照らしてどんな辺鄙な里にも届くけれど、それを眺める人の心が澄んでいるからこそその美しさが心に宿るんですよ)

浄土宗の開祖、法然上人の和歌で、「月影」とは、阿弥陀如来の光明(救済)を意味する。夜間撮影に臨み満月のその美しさに誘われ、いつも口ずさんできた私の大好きな詠である。
 
また、少し変わった次の歌も有名である。

「あかあかやあかあかあかやあかあかやあかあかあかやあかあかの月」  (作:明恵上人)

「あかあか」とは、月の明るい様を意味する。明恵上人は京都にある17の世界文化遺産のひとつ、高山寺の開祖であり、月をこよなく愛し月の歌を多く歌った。月の明るさ、清らかさ、更には求道一途の彼の思想(=理想か?)とする「人のあるべき姿」を詠んだものと言われる。 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

本には世界に誇る素晴らしい四季が存在する。その四季の変化を作り出しているのは太陽に対し21度の傾斜角で回る地球の回転軌道に起因する。
そしてその21度の傾斜角は月の引力によって安定し支えられている。
天体としての月の存在は我々人類の生命にとってかけがいのないものであり、その存在によりもたらされる四季の変化は、
言うまでもなく日本古来のアニミズム(自然崇拝)思想に大きな影響を与えた。
 
以下に紹介する20点の写真は、一部を除き主にフィルムカメラで撮影したものである。
 
デジタルカメラに写真の本流が移行して以降、本来の夜間撮影の醍醐味は薄れ作画条件も一変してしまった。フィルムカメラならではのアナログ的作画手順ゆえに生まれる視覚的新鮮さや未知の映像世界は、もはや高感度を誇るデジタルカメラでは同じように表現出来ない。フィルムカメラでは月の光量がフィルム上に結像する迄に必要とする時間はデジタルカメラに比べ長く、目前の光景も当然ながら長時間変化する、その変化する過程が夜間撮影独特の異次元世界を創り出す。不器用なフィルムカメラの低感度さ故に、奇しくも我々は肉眼では見ることの出来ない視覚的異次元世界に遭遇することが出来たのである。
フィルムカメラでの夜間撮影の魅力、それは言わば淡い月の光と時間経過が織りなす映像のタペストリーである。
皮肉なもので、文明や科学技術の進歩は開発者の意に反し、時としてかけがいのない表現世界を葬り去る結果となる。