「カメラ視線の哲学的本質とは?」

 
連日猛暑の続くこの夏、撮影から少し離れ、以前から関心のあったこの難解なテーマに想いを巡らせてみようと思うきっかけに出会いました。
 
世の中がデジタルカメラ時代になって久しい今日、私自身もフィルムカメラからデジタルカメラに持ち替えて3年目に入りました。
デジタルカメラの功罪や、フィルムカメラの歴史的意義や存在価値については、紙面や場所を変え、様々な人々により様々な形で語られています。
 
過日、ライカで撮影された一枚の写真を見たその瞬間、前述のテーマはライカ社のフィルムからデジタルへの変遷を辿ることによって、より分かり易いのではないか ! …とふと気付きました。現在のフィルムからデジタルへの手法革命の只中、「名門ライカがどのようにデジタル化に対応し、どのように絵作りをして行くか?」ライカファンならずとも非常に興味深いところであります。
 
オスカー・バルナックが1913年に開発したウル(原型)ライカより様々な変遷を経て「ライカ判」と言われるユニバーサルなフォーマットを育て上げたライツ社、ライフ誌などフォトジャーナリズムが興隆し始めた1930年代にはLEICAⅡ, LEICAⅢを世に送り出し、キャパやブレッソンなどの著名な写真家の愛機ともなり、ライカはひとつの黄金時代を迎えました。また第二次世界大戦中には、ドイツはもとよりアメリカ、イギリスなどの連合国、そして日本でも貴重な軍用カメラとして数多くが活用され、世界最優秀カメラのひとつと認められるようになりました。しかし「果たしてかつてのフィルムカメラと同じクオリティをデジタルカメラで再現出来るのか?」創立100周年を迎えたフィルムカメラの雄、ライカ社の開発力が世界に問われています。
 
本題に入る前に、第二の人生をカメラと共に歩み始めてから出会った心に残る3枚の写真を紹介します。まずはその3枚を思い起こし、どんな写真に私は感動を覚えるかを初めに考えてみます。
 
1枚目は、ハッセルブラッドを主に使っていた頃、ガイドブックで見たPlanar C80/2.8白胴鏡(ボデイは500C/M)で撮られた街角に立つ老人の写真です。その光景は何気ない日常のひと小間であり、特別珍しいものではなかったのですが、冬の柔らかい日差しが皺の刻まれた浅黒い顔を照らし、着ているセーターの繊維の質感がやけに生々しく描写されていました。その場にいてこの目で見たかのような空気感がそのまま再現されており、訳もなく魅了されたことを今でも覚えています。
 
2枚目は富士山撮影を始めて最初に訪れた、河口湖美術館富士山写真展での一枚です。今から11年前のことですが、そこでキャノン賞を受賞された柴田英夫さん(名古屋市在住の有名なアマチュア富士山写真家)が撮影された新道峠の積雪の朝の光景でした。夜明けのモルゲンロートが木々の新雪に柔らかく差し込み、富士を取り巻く雲海が淡く色づき始めた瞬間を見事に捉えていました。その光の輝きはまさに天上の神々しさを連想させるものでした。「その場にいかにして立つか、 その瞬間はいつか。」それをイメージすることが肝心な、富士山撮影の極意が全て収められた名作でした。後にその写真は私の目標の一枚となりました。それから毎年、冬の河口湖美術館通いが始まり、中でも柴田さんの入選作を見ることが私の最大の楽しみとなりました。柴田さんご本人とはその後、伊豆の撮影現場で偶然お目にかかり、今では毎年、年始のご挨拶状を交させて戴いております。「目標とする富士山写真家は?」と聞かれる度に私は、いつも柴田さんの名前をあげます。
富士山撮影に一番大切なものはイマジネーションと私は考えます。そのイマジネーションの源泉は、豊富な経験と情報です。
経験に裏付られた氏の目指す瞬間を察知する想像力は特筆に値し、常に私の目標とするところです。
 
3枚目は、ライカ社のデジタルカメラ撮影例をパソコンで探していた時に見つけた一枚です。最近ライカ社はXシリーズという比較的安価で入手し易いコンパクトデジタルカメラを発売しました。その一枚はそのシリーズの中のズームレンズを装備した機種で撮られたものでした。
 
東シナ海を見下ろす海岸線の高台から、遥か遠くの水平線上に漂う夏雲を撮影した写真でした。水面には雲間から木漏れ陽が優しく差し込み、ざわめく波頭に眩しく反射し、その木漏れ陽を湛える雲間の神々しさは威光に満ち溢れていました。その光景は富士山撮影で幾度か経験した、あの未知の瞬間に遭遇した感動と共通するものでした。「こんな写真が撮れるライカの変遷と現状に、今回のテーマの糸口があるのでは!」と思い始めたきっかけはこの一枚との出会いでした。

「人はどんな写真に感動を覚えるのか?」

おのずと答えは十人十色となる訳ですが、ここでは自分に置き換えて考えてみたいと思います。 
 
答えは意外にシンプルなところにあります。まずカメラとレンズは単なる物質であり、それぞれを構成する様々なマテリアルには意志は存在しないという点です。その極めて物理的なハードに人の心を投影する魂を注入することが、メーカーの究極の目標である筈です。しかし現実には全てのメーカーがそれを実践出来ている訳ではなく、目前の経済活動に主眼を置き、その究極の目標から逸脱せざるをえない企業も多いと推察されます。
しかし、時としてその極めて人工的生産物としてのカメラが感動の瞬間を捉えることがあります。
「見たものを、その空気感、その輝き、その暖かさ、その冷たさ、その鋭さ、そのぬくもりで表現する、人の目が捉えた全ての感動をそのまま写し撮る。」それをカメラの奇跡と定義するならば、現実として具現化している写真にこの上なく心惹かれます。そして今、ライカにその可能性を感じ始めました。
 
<ライカ使い手の視点>
ライカ評論及びライカの使い手で著名なカメラマン田中長徳氏は、「LEICA, My Life」 の文中で、ライカの名手である写真家 リー・フリードランダーの言葉を引用してカメラ視線の哲学的本質について以下のように述べています。
「写真家が世界に触り、そこから誰も知らない新しい世界を紡ぎ出すこと、それがカメラ視線の哲学的本質上最も大切なことであり、一般的な世間の価値観をそのまま写真に置き換えることに新しい発見はない。そこにあるのはただそれを可能と考える多くの現代写真家の価値観の陳腐さのみである」と…
蓋し名言です。
 

< LEICA Xvario試写例(1)三島大社

御手洗場
 
総門、注連縄
 
狛犬
 
本殿(1)
 
本殿(2) 
 
総門
 
本殿、浄財箱
 
本殿(3)
 
本殿(4)
 
 神馬舎
 
厳島神社、石灯籠
 
神門、門柄
 
本殿(5)
 
神門 
 
常夜灯