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<メルシーのラーメン>
 
地下鉄東西線早稲田駅の傍に「メルシー」という名のラーメン屋がある。同じクラスの友人に教えて貰い良く通ったものだ。鯨油ベースのスープが新鮮で美味しく、いつしかやみつきになる。中太ストレート麺に、もやし、メンマ、コーン、チャーシュー、ゆで卵半分がトッピングされ確か300円前後くらいであった(現在でも400円)。W大生を虜にするこの味に惹かれOB,OGが今でも頻繁に訪れるとの事だ、言わばW大生のソウルフードと言える。「ラー大、濃い硬(カタ)」、メルシー通はこう注文する、つまり「ラーメンの大盛り、味濃い目、麺硬目」の略である。そして、何よりも創業者の意志を継ぎ、薄利多売に徹し学生を応援する現店主の心意気が最大の隠し味である。当時の貧乏学生にとって、いつでも寄れるその安さは本当に有難かった。
 
地下鉄を降りメルシーで食事をし、早稲田実業のグランド沿いに暫く下ると正門に至る。その甍の中心に建っているのが、大隈講堂である。
 
入学して語学はドイツ語を専攻した。ドイツ語の9組が私のクラスとなった。
親しい友人が3人できた。一人は文京区の老舗石屋の次男坊M、一人は日野市の大地主の次男坊Y、そして武蔵境のエリートサラリーマンの次男坊Tだ、なぜか3人とも次男坊であった。折しも学生運動末期の内ゲバ時代。大学はK派の拠点となっていた為、全ての文化活動や学校機能も停滞していた。キャンパスには、ヘルメットを被った学生が毎日ビラを配り、様々な色のヘルメットが我が物顔で闊歩していた。学校当局は、新たな争いの種を作ることを嫌い、K派の学園統治を止めさせることなく、見て見ぬ振りをしていた。そんなある日、文学部の一年生、川口大三郎君がK派のリンチにあい殺害された。川口君とは同郷のよしみということもあり、その凄惨さに憤りを覚えた。全校の一般学生で、学生自治権の復権を目指し運動を起こしたが、学校当局と機動隊によって阻止された。このような学園生活の状況下で、記憶に残る思い出は殆どなかった。
 
受験生時代、私は京都もしくは関西の大学に行くことが目標であった。東京での浪人時代に難病に罹患した経験に懲りて、閑静な環境での学生生活を望んでいたからである。しかし京都の大学に合格したにもかかわらず、W大を選んでしまったのだ。あの当時の自分自身の心境が我ながら分からない。W大に入れば前述したような悲惨な学園生活になることは、容易に想像できた筈だ。考えた挙句、ひとつの答えを感悟した。それは、大隈講堂の屹立とした建築美だった。正門前のロータリーから見る講堂は、直線的にそびえ立つ壁の造形美が素晴らしく、天を刺すように鋭角的なトップがその上に鎮座する。その爽快感は、得も言えぬ程美しく、私を虜にした。多分その講堂を毎日見る生活に憧れたのであろう。単純な理由であるが、それ程、細部に魂の宿った講堂の美しさに私は心惹かれた。
 
2年生の夏休みに友人3人と北海道旅行に出かけた。一つくらいは何か学生時代の思い出が欲しかった。学校の生協でガソリン券を買った。確か1ℓ 60円前後であった。釧路まで郵船フェリーで渡り、道東を中心に回り、最後は札幌に出た。釧路、阿寒湖、車石、尾岱沼、摩周湖、知床半島、網走、洞爺湖、などを巡った。車は、Tが親のスネをかじって買って貰った中古のサニー。この旅で車の走行能力を試したいなど、バカなことを言っていた。カメラはYの親父さんから借り、三脚はYの親戚のプロカメラマンから借りたジッツォー。当時、Yの親父さんはカメラに凝っており、ドイツ製の超高級大判機リンホフを持っていたが、その価値を分かってくれる人はいなかった。勿論、この私もである。
 
明るく面倒見の良い江戸っ子気質のM。3年生の時、早慶戦で母校が勝利し総合優勝が決まった瞬間、彼と二人で神宮球場のグラウンドに飛び降り、外野を遠慮がちに走り回ったのを昨日の事のように覚えている。名門武蔵高校出身で学者肌のY。かつて地元の名主であった名家の末裔である。ある日、広大な屋敷の芝生刈りを手伝っていた時、野球部の東門選手が亡くなったニュースが飛び込んで来た。第一回日米野球で米遊撃手からの併殺崩れの送球を二塁ベース上で頭部に受け、意識不明になっていたのだ。将来を嘱望された名選手だった、まだ19歳であった。後日学校葬が執り行われ全校でその死を悼んだ。
 
エリートサラリーマンの子弟としてのハイソ感あるT。一番やんちゃなお坊ちゃん。彼に連れていかれた国立邪宗門のコーヒーは最高であった。国立の街は彼の出身校の所在地で自慢の縄張りであった。彼の家族とよく家庭麻雀をやったものだ。一流企業勤務の父親、東大出の兄貴、弁理士の義兄、桐の桐朋卒が彼の誇りだった。なぜか3人とは馬があった。MとYはサッカーファンで、卒業後は二人でワールドカップ観戦に何度も出かけたようだ。Tは高校以来のクライマーで、大学在学中も南北アルプスへ一人で挑戦していたことを後に聞いた。4人で麻雀も良くやった。正門近くの雀荘イワタが定宿であった。同窓生には強い奴が多かった。それゆえ麻雀だけはいまだに自信がある。学生時代に開花した才能はひょっとしてこれだけかも知れないと思うと、些か寂しいものがある。
 
一昨年、聖路加国際病院で写真展を開催した際、この3人に何十年ぶりかで再会した。勿論3人共、私の写真を鑑賞してくれた。3人の他にも数人が集り会食会を企画してくれた。かつての紅顔の美少年達も、見る影もないおじさんになっていた。しかし不思議なもので、10分も話すと学生当時の皆に戻っていた。驚いたことに石巻出身で現役入学のK君は、大手M乳業の社長になっていた。
当時は、現役入学者を「まぐれ入学」とよく敬意を込めてバカにしたものである。有名カメラメーカーN社の役員になったN君もいた。今更ながら皆の優秀さを再確認し驚かされた。
 
悲しいニュースもあった。一番手で弁護士になったO君が亡くなっていたのだ。40歳前後であったとのこと。20年以上前の出来事を、皆に再会するまで知らなかったことは痛恨の極みであった。実は彼には大きな借りがあった。大学1年の時、浪人中に罹患した闘病生活の疲れが残っており、私は学校を休みがちだった。授業もあまり出ていなかった。進級試験前のそんなある日、電報がアパートに届いた、O君からであった。「自分のノートをコピーして試験用の資料として渡すので、明日学校へ来るように・・・」とあった。携帯電話などない時代に、わざわざ電報をそんなに親しくもない同窓生の為に打ってくれたO君の思いやりが、涙が出るほど有難かった。警察官の家庭で育ったO君は端正な顔つきで体格も良く、真面目で成績も多分クラスで一番であった。卒業後、司法試験に合格し弁護士になった。そんなO君のノートのコピーは素晴らしく、一夜漬けでもなんとか進級できた。O君に再会できる機会があったら、あの時の礼を必ず言おうと心に決めていた。しかしそれがもう叶わない、なんと人生は無情であろうか、受け入れ難い「まさかの坂」を幾度か登る時が必ず訪れる。O君のご冥福を心より祈りたい。
 
卒業後はそれぞれの道を進んだ。Mは東京都の職員、Yは大手建設会社、Tは当時羨望の的だった損保会社、私は以前より希望していたY発動機に入社し名古屋支店へ赴任した。卒業後数年間、年末の有馬記念の日にMの家に集まり、ハズレ馬券を片手に近況報告しあったりしたが、その後は年賀状の交換くらいであまり連絡を取り合うこともなくなり、かなり以前にMが伊豆に遊びに来た際、自宅に寄ってくれたくらいである。
 
同窓の友人には特に共感を覚える。同じ時代、同じ時間をまるでそのまま生きて来たからである。オイルショック、ドルショック後の未曾有の就職難、狂乱のバブル経済、リーマンショック、その後のバブルの崩壊、失われた20年、様々な人生であったことだろう。「まさかの坂」を幾重にも経験したことだろう。そしていつの日か、それぞれに自然に帰る時が来る。「M、Y、T、・・・ありがとう! 君らはブラボーな輩だった。」
 
ビートルズの「We can work it out」の中に「Life is very short」という歌詞が出てくる。今はこの言葉の重みが身に沁みて良く分かる。
 
苦い青春の味 ! ・・・メルシーのラーメン。
あの時のあの味は、今も変わらずにいるだろうか・・・?
いつの日か、満員の地下鉄に揺られて、もう一度訪れてみよう・・・