<メメント・モリ・・・死生観について>
 
「メメント・モリ!」・・・という言葉をご存じだろうか?
ラテン語で「自分が必ず死ぬことを忘れるな」という警句である。
 
死は万人に訪れます。死に直面する前に、死を自分の中で納得の行く形で受け入れる作業を、出来るだけ早く確立しておきなさいという意味です。
それはやがて死生観となり、生きることと死ぬことについての、判断や行為の基盤になって行きます。
 
こんな話をする理由を、私を例にとって説明します。
 
恥ずかしながら、私は50歳を過ぎるまで死生観について考えたことはありませんでした。海外では死生観を宗教から得る人が大半ですが、日本では特定の宗教を持つ人は少なく、死と向き合い、対処するという術を持っていない人が殆どです。私もその一人でした。
 
ところが51歳の時、2度目の心臓手術を受けるにあたり、死の受容が出来ず大変苦しみました。手術の前夜、ケビン・コスナーの出演する映画をベットサイドのモニターで見ながら、明日の処刑を待つ死刑囚のように狼狽したことを、今でもはっきりと覚えています。当時の私の病状は死を確信するほど重篤なものでした。しかし、殆ど成功の見込みがなかった手術も、名医との巡り合いにより九死に一生を得、生還することが出来ました。
 
退院後、死の受容があの時、何故出来なかったかを掘り起こしてみようと、勉強を始めました。後に物の本で読んだのですが、終末期の患者には、4つの痛みがあるそうです。それは、肉体的痛み、精神的痛み、社会的痛み、死の受容(魂)の痛みです。中でも死の受容の痛みは一番手強く、万人が自身の心との葛藤に苦しむようです。死の受容が出来てさえいれば、死への恐怖、畏れをもっと軽減出来たはず。その為には、あの時何をするべきであったか?多くの死生観や宗教について書かれた本を読み漁りました。
 
自分とは、自分の人生とは何か?
なぜ自分はこの世に存在しているのか?
自分はどこから来て、どこに帰っていくのか?
自分は、何と運命を共にしているか?
 
等々、手掛かりになりそうな課題を、一つひとつ細かく分析することから始めました。
 
人間が運命を一緒にしているのは地球です。そしてその地球には寿命があります。太陽は毎秒6億トンの水素を燃やしながら核融合を繰り返しています。その水素も有限であり、70億年後に太陽はそれを燃やし尽くします。燃やし尽くした太陽は、膨張を続け地球の軌道を飲み込んでしまいます。その瞬間が地球の最後となります。人間や全ての物事に、永遠はないのです。
 
人は元素(原子、粒子)から出来ています。その元素は超新星爆発という、質量の大きな星が寿命を終えて爆発する現象からのみ宇宙に放出されます。私達の育ての親は太陽であり、生みの親は、超新星爆発によって死んだ星のチリやガス(元素)です。宇宙の全ての物の源は、爆発によって撒き散らされたこの残骸から出来ているのです。
 
地球は約46億年前に誕生しました。一方、人が人らしい営みを初めてから、たったの1万年しかたっていません。地球が出来てからの46億年を一日24時間と仮定すると、人の歴史はたったの3秒です。人間の存在の儚さが良く分かります。宇宙のチリやガスから出来ている私達は、死を迎え灰になることにより、再び宇宙に帰って行きます。また、その宇宙も数兆年後には、水素を使い果たし、暗黒の世界になってしまいます。現在私達は幸いにも、数十億年続く生命溢れる宇宙の黄金時代に生きているのです。
 
宇宙という単位や時間で自分を見つめ直すことで、自分の存在がいかに小さく奇跡的なものかが浮かび上がってきます。その観点は、いかに生きるべきか、いかに在るべきか、人生にとって本当に大切なものは何かの答えを導き出すヒントとなり、同時に死に対する漠然とした不安や恐怖心を軽減し、充実した時間を持つことを可能にしてくれるはずです。
 
私が医療施設で富士山写真展を開催しようと決心したのも、アミニズムの象徴である富士山の美しさを通して、人が根源的に属しているものは大自然であり、宇宙であることを理解してもらうことが、患者さんに死生観を想起してもらうきっかけになるかもしれないとの想いに触発されたからです。
 
医療従事者のように、頻繁に死に触れる環境に身を置く人々の死生観は、非常に厳しいものだと容易に推察されます。そんな彼らの死生観の話を聞いたり、宗教の死生観を研究したり、自分が共感出来る著者の本を読んだりして、自分が納得出来る死生観を持つことは、生きる心の支えになり、いずれ来る死の恐怖を和らげます。それは、誰にとっても必要で大切なことであるはずです。
 
死と向き合い死を受け入れると、人生を前向きに捉えて自分らしく生きられるようになり、自分の心と直観に従う勇気が持てるようになります。少しずつで構いません。死生観を様々な人や本から吸収し、養うことを始めましょう。きっと、人生で一番大切なことが見え始め、何事にも動揺しなくなり、生きることが楽になるでしょう。
 
二度地獄の門を叩いた経験からの教訓です。