<地獄の花・・・絶望の淵>
 
先日、朝日新聞のコラム欄で、ピアニスト西川悟平さんの感動的な記事を読んだ。
 
「やはりこの人もか・・・!」と、感慨深く何度も読み返した。
 
「そして心は、音になった。」と題された小文には、ジストニアという難病に罹患し、ピアニストの命である指が動かなくなってからの病と格闘する姿が描かれていた。
 
「それから、一つひとつの音を確かめるように、気が遠くなるほどゆっくりと言う事を聞かない指に丁寧に音を教え込むように練習を続けた。7年。どうにか一曲弾けるようになるまでそれだけかかった。気がつくと5本の指が動かせるようになっていた。10年がすぎ、7本の指が動かせるようになった頃、僕の音が変わっていた。まるで心が、ピアノを通して音になったみたいに不思議だった。10本の指で弾いていた頃、欲しくてしょうがなかった音を、ピアノは奏でていた。」
 
種田山頭火の言葉に、同じような内容の一文がある。
 
「どうにもこうにもならなくなって初めて真実の道が開く。真に生きるということは、真に苦しむということである。地獄から天国への道が最も険しい、そして最も尊い道である。芸術は世界の一人から出発して一人の世界に達する。自己の恃(たの)むべかざるを知って、しかも恃むべきものは自己の外にないことを知った時、私は孤独の強さと沈黙の強さとを理解し得た。
 
失望は悪魔を生み、絶望は神を生む。
 
苦悩は自己を造る、そして神を造る。
まことの個性は、地獄のカマドから焼き出される。
地獄の火をくぐった個性でなければ、まことの熱がない。
私の求むる花は、地獄の真ん中に咲いている。
 
忍ぶものは勝つ、光は闇の奥から来る。」
 
両者とも絶望の淵に立って、初めて見えてくる光景があることを、自己の経験を元に伝えている。私の経験などとても及ぶべきものではないが、やはり生きることを諦めざるを得なくなって、初めて地獄から引き戻された。
 
闘うことに疲れ果て、身体が病に負けそうになり、「もういい・・もういい・・」と呟くと、その苦悩の奥から光がやって来た、まさに絶望の中に神を見た。
 
「大村さん!大村さん!大村さん!」と叫ぶ声を今でも鮮明に覚えている。
 
もの事とは、そういうものかも知れない。
どうにもならなくなって初めて道が開ける。
 
自己の意志では、到底抗う事の出来ない、絶体絶命の境地が何かを生む。
そしてその苦悩は、自己を造り、神の存在を知らしめる。
 
いくら望んでも簡単に手に入ることのない心の平穏と、揺るぎない生き方の機序ともいうべき真理に近づき、そして確信を得る。
 
苦難は神からのギフトである。
そして神はその苦難を、乗り切れる人間にのみ与える。
そう想えてならない。
 
苦難が訪れた時、ただ悩み悲しむのではなく、「今度はどんな自分に出会えるか・・・」と正面からその苦難に対峙し、挑むことが最も大切である。
 
苦難多き人生である。
みんな負けるな!