<武士道・・・精神の形>
 
今から13年前の2005年、藤原正彦の「国家の品格」を読んだ。折しも世界経済は、市場原理主義が主流となり、低福祉低負担、自己責任をべースとし、小さな政府を推進し、政府が市場に干渉せず放任することにより国民に最大の公平と繁栄をもたらすとした。言い替えれば「儲けるために法を犯さない限り、何をやってもいい」「法律・制度を改革し、儲ける機会を拡大させ、国家は武力の行使も辞さない」またアメリカは、古典経済学の世界に戻って「野放しにすれば全てうまく行く、まずくなれば神様が何とかしてくれる」という単純な思想で1990年代の経済成長を説明した。米国のレーガン政権、英国のサッチャー政権の経済政策に大きな影響を与え、日本でも中曽根、橋本、小泉政権などがこれに基づいて規制緩和や構造改革などを推進した。
 
このような札束に魂を売るような思想が上手くいく訳がなく、2008年9月15日に、アメリカ合衆国の投資銀行であるリーマン・ブラザーズ・ホールディングスが破綻したことに端を発して、続発的に世界的金融危機が発生した。小泉政権の5年半ほどの間に、市場原理主義が、「聖域なき構造改革」の名の下に全面的に導入され、日本は社会のすべての分野で格差が拡大し、殺伐とした陰惨な国になってしまった。会社は従業員のものではなく株主のものになった。それは株を持っている間だけの関係で、上手く売りさばき儲けるだけが目的ゆえ、会社への愛情は皆無と言って良い。そして従業員の情緒を無視して論理のみを貫くようになり、リストラされる人や非正規雇用が増えた。「失われた10年」はこの時期に幕を開け、日本国民は、自信と希望を失うこととなった。
 
こんな時期に出会った「国家の品格」は、アメリカの「論理万能主義」を批判し、「だめなものはだめ」と主張。グローバリズムなどを真っ向から否定し、自国の伝統や美意識などを重んじることを説いた。また、世界で唯一の「情緒と形の文明」を持つ日本の「国家の品格」を取り戻すことが書かれていた。
 
市場原理主義の横行に隔靴掻痒の感を持ち、僻々としていた世の常識人にとって、藤原のユーモアを混じえた語り口は小気味よく、2006年5月までに発行部数265万部を超えるミリオンセラーとなった。私がこの本の中で一番興味を持ったのが、藤原が説く「武士道」論であった。藤原は、幼い頃から祖父に武士道精神について薫陶を受けてきた。よって全ての考え方の根本に武士道精神が見てとれる。私は藤原の切れの良い語り口と、考え方に共感を覚えた。
 
<藤原正彦:1943年〜> 満州国新京生まれ。数学者。エッセイスト。御茶の水女子大学名誉教授。専門は数論で特に不定方程式論。作家新田次郎、藤原てい夫妻の次男。自然科学における美しいものに感動する「情緒力」の重要性を説く。
 
武士道はもともと、鎌倉時代に作られた戦場における戦いの掟であった。敗れた敗者への惻隠の情、潔い戦い方などがうたわれていた。やがて行動基準、判断基準の元になる道徳に発展した。西欧の国々が宗教により道徳観を養うのと同じである。やがて、江戸時代に武士道は武士道精神へと洗練されて行き、歌舞伎、浄瑠璃、講談などを通じて民衆に広まった。武士階級の行動規範であった武士道は国民全体の行動規範になっていったのである。武士道精神には、慈愛、忍耐、惻隠、勇気、正義、誠実などが盛り込まれている。惻隠とは、他人の不幸をおもんばかる思いやりである。その他に、名誉と恥の意識もあり、この精神は、長年、日本の道徳を形作ってきた。
 
「武士道」という言葉は、明治33年(1900年)以前のいかなる辞書にも載っておらず、新渡戸稲造の著書「武士道」で広まったものであり、江戸時代には一般的な言葉ではなかった。それでは、新渡戸稲造の「武士道」とは何か?
 
<新渡戸稲造:1862年〜1933年> 国際連盟事務次官も務めた教育者・思想家。1884年22歳でアメリカの大学に進学し、3年後にはドイツへ官費で留学、1891年29歳でアメリカ女性と結婚し、研究にいそしむが、多忙のあまり精神を病む。療養中の1900年に「武士道」を英語で執筆する。東京女子大学初代学長。日本銀行券の五千円札の肖像としても知られる。
 
新渡戸の説く武士道とは、「儒教」と「仏教」の長所を継承し、義、勇、仁、礼、誠と名誉を深く重んじた身分に伴う義務だと言っている。真の武士は周りに流されずに正義を守る勇気を持ち、「忠義」を守ることによって名誉を得ることが、究極の武士の到達点としている。そして忠義とは自己実現のあり方で、個人主義ではなく忠義を重んじ、主君、国家、社会を個より上位に置く思想の大切さを説いている。また、「日本の武士道・美」は、自己規律の精神であり、外界にみせびらかすものではなく、人が人として美しく生きる姿勢にあり、人が人として生きる道であるとも説いている。新渡戸稲造の「bushido」は何ヶ国語にも翻訳され大ベストセラーになった、特に日露戦争の調停をしたルーズベルト大統領は友人の間に何冊も配った。
 
それでは、藤原正彦の説く武士道論とは何か?
 
藤原正彦の「武士道」は、新渡戸稲造のそれを踏襲し、武士道精神を日本に復活させるべきであると説いている。ポピュリズムを危険だとし、民主主義、主権在民はいつか国を潰す可能性を秘め、それを防ぐ為に「真のエリート」が必要だと言う。その真のエリートの条件としては、文学、哲学、歴史、芸術、科学といった一見役に立ちそうもない教養を余すところ身につけ、圧倒的な大局観や総合判断力を持っていること。「いざ」となれば国家、国民の為に命を捨てる気概があることが条件としている。その為には、美的感受性や日本的情緒を育むとともに、人間には一定の精神の形が必要とする。論理というのは、数学で言う大きさと方向だけで決まるベクトルのようなもの、座標軸がないと、どこにいるか分からなくなってしまう。人間にとっての座標軸とは、行動基準、判断基準となる精神の形、すなわち道徳である。こうした情緒を育む精神の形として、「武士道精神」を復活すべきと説いている。一般大衆に期待しないこの考え方は、エリートの為の武士道に一見して見えるが、当時の市場原理主義に世界が席巻されていた状況に於いては、民衆はなす術もなく、真のエリートの登場を待たざるをえなかった。
 
現在の国会議員にも、国や国民を顧みず、私利私欲や保身に明け暮れる心寂しき人々が多い。志なき者に国家を語る資格はない。武士道精神に基づき、悪事をしたら潔く反省し自らを律するべきである。慈愛、忍耐、惻隠、勇気、正義、誠実を欠くこの迷い人達を、国民は日本の「恥」と思うことだろう。藤原が「国家の品格」を著してから13年、真のエリートは、果たして実在するものか? その登場が待たれる。
 
最後に、武士道精神が色濃く表現された和歌(ことのは)を二つ紹介しよう。
 
「かくすれば かくなるものと知りながら やむにやまれぬ 大和魂」
                        <吉田松蔭>
 
(訳)密航を企てれば、いずれ投獄され処罰を受けると知りながら、日本の為に自分が外国へ行かざるを得ない、私の大和魂。
 
吉田松陰が下田で外国船に密航できず捕縛され、江戸の牢獄に送られる途中、高輪・泉岳寺の前で詠んだ和歌。忠義の赤穂浪士と自分を重ねて詠んだ歌。
 
<吉田松蔭:1830年〜1859年> 尊皇論者の長州藩士で、安政の大獄の最中、29歳で刑死。
 
「敷島の 大和心を人とわば 朝日に匂う 山桜花」  <本居宣長>
 
(訳)大和心とはどのようなものかと人が尋ねたならば、朝日に美しく照り映えている山桜の花のようなものだと、答えよう。
 
私たち日本の花、桜は、その美しい粧の下に棘や毒を隠し持ってはいない。自然のおもむくままに、いつでもその生命を棄てる用意がある。その色合いは華美とはいいがたく、その淡い香りには飽きることがない。草花の色彩や形状は、外から見ることしか出来ない。
 
1790年61歳の時に本居宣長が描いた自画像に自讃した歌。大和心とは、漢学の才に対して日本人が本来持っている知恵や才能。日本人としての優美で柔和
な心。日本人の純粋無垢な心情を示す言葉として表した。この歌は新渡戸稲造の「武士道」第15章の中でも取り上げられている。
 
<本居宣長:1730年〜1801年> 江戸時代の国学者・文献学者・医師。国学の発展に多大な貢献をした。特に35年を費やし「古事記」研究の集大成である注釈書「古事記伝」を著した。当時「日本書記」を購読する副読本としての位置付けであった「古事記」が、独自の価値を持った史書として評価を獲得していく契機となった。代表作は「古事記伝」のほか、「源氏物語玉の小櫛」「玉勝間」などがある。