<若い死>
 
「36歳の一人息子が、余命数週間でがんと戦っています。あなたの写真を見せたいので、譲って戴けませんか?」
2009年に中日新聞の「文化ぶんぶん人類学」という文化欄に私の活動が紹介された際、三重県津市のMさんから戴いたお便りである。このコラムには、興味深い文化活動やユニークな分野でコツコツと努力をしている人を紹介する記事が毎回掲載されていた。中日新聞の購読者数は、日本国内で4番目であり、愛知、三重、岐阜、静岡県西部に渡り300万部を超えていた。
 
 「癒しの富士山写真家、がん治療機関に展示、大自然が絶望を和らげる。」
 と、うたわれた見出しで多くの反響を戴いた。その内の一件がMさんからのお便りだった。原発部位の分からない全身に及ぶ進行性のがんで、余命僅かな息子さんが闘病をされている様子が綴られていた。読者からのお便りの中で、患者さんもしくは患者さんのご家族が希望されることは、全て快く応じようと決めていた。ちょうどMさんからのお便りが届く数日前に、お気に入りの写真が額装を終え手元に戻ってきていた。その写真を翌日すぐに宅急便で送り、無期限でお貸しする旨を伝えた。 送ってその後暫くの間、Mさんからの返事はなかった。
 
 一ヶ月ちょっと経過した頃だろうか、Mさんから息子さんが亡くなった旨のお便りが届いた。写真が届いてから9日目のことだったそうだ。
 「息子に最後のお別れをしに来てくれた全ての方々に、あなたの話をしました。見ず知らずの人間に、こんなにも親切にしてくれる人がまだいると、何度もなんども繰り返し話をする内に、息子との別れを少しずつ受け入れることが出来たような気がします。」
思わぬ形でお役に立てたことが、私の心を少し軽くした。
また感謝の言葉の最後に、是非、直接会って写真を返したいとの旨が記してあった。私は、三重からわざわざ遠路出向いてもらう必要はないので、送り返して下さいと何度も伝えたが、Mさんの意志は硬く、どうしても会って礼を伝えたいとのことであった。私は話をしている内に、その真意に気付いた。
きっとMさんは、私に会うことで、息子さんとの別れに、ひとつの「けじめ」をつけたいのかも知れないと。
 
待ち合わせは、東名高速富士インターの出口にした。
息子さんが最後に見たであろう富士山を、田貫湖からMさんに見て欲しかったからである。田貫湖のレストハウスからは、真正面に大きな富士山が見える。
自分自身の経験から、人は死後、成仏するまでの49日間、最後に見た最も印象深い場所に魂を漂わせる。もしそうだとすれば、大きな富士山が真正面に見える、田貫湖が最適地であると考えた。
Mさんは、夫人とご親戚の3人で来静された。レストハウスで御子息の亡くなる最後のご様子や、それまでの生き方、罹患した病魔の恐ろしさなどを聞かせて戴き、別れ際に近くの陣馬の滝にお連れした。富士山の湧き水を、用意しておいたペットボトルに何本も入れて渡し、「毎朝、この水を御霊前にお備え下さい」と伝えた。美味しい富士山の湧き水を、息子さんに飲んで欲しかったからである。返却にみえた写真はそのまま持って帰って戴いた。その写真にとって息子さんの傍に飾って戴くことが、最良の場所であると考えたからである。写真は額装された時から、既に行き先が決まっている、いつもそう思う。
 
たった一人の息子さんを、36歳という若さで亡くされたMさんの無念さは、想像を絶するものであろう。幸いにもその経験がない私には理解を越えるものである。人の人生は、沢山の「お陰」から出来ている。私の人生もそうであった。社会や自分と関わった人々への恩は、また社会に返すことで報われる。
これからもそうしたいと思った。
 
若い死は、痛ましい。
御子息のご冥福を、心からお祈りしたい。